『日本語が亡びるとき』の違和感

Yさん一家のホームパーティにご招待していただき、今度は牡蠣料理を堪能させていただきました。グリル焼きに、クラムチャウダー、酒蒸し、牡蠣ご飯。ホント美味しかった。。

とても大きな牡蠣でした!(写真は酒蒸し)Berkeley Bowlで購入されたとのことでしたので、今度はウチでも挑戦してみたいです。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

さて、『日本語が亡びるとき』読み直し完了。前回読んだときの違和感は、
『7章「英語教育と日本語教育」にて、亡びる運命を避けるための手段として学校での英語教育を挙げているから』
だとわかった。他にも「なぜそうなるの!?」とビックリするような論理展開があるが、一番引っかかったのは上記部分だ。

あるもの(この場合は価値ある日本文学)の滅亡を防ぐには、その価値を認めることのできる母集団を大きくし、「滅亡させてはならない」という動きを作り出すのが効果的だと思う。情報科学の分野では、数式やアルゴリズムのおかげで

ある研究について日本語で書かれた論文の価値 ≒ その英訳論文の価値

となっているが、作中でも触れている三四郎に代表されるような日本の文学作品については、

日本語で書かれた作品の価値 > その英訳の価値

となってしまっている。作中でも、「英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからない(p264)」という一節がある。

日本文学の価値を残したかったら、その価値を普遍語である英語で示すことに注力すべきでは?英語の表現能力の限界として表現できないのなら、何処までできて何処ができないかを明確にし、その表現能力を拡張する方向に持っていくべきじゃないだろうか。「英語では表現できない」とあきらめるのではなく。そしてそれが、英語圏の日本文学研究者の使命では?

日本国内を変える必要はあるとしても、それ以上に、日本文学の良さを発信できる方向に変えるのがより重要ではないのだろうか。これが、私の違和感の正体だった。

作者の示した方向性には違和感を覚えるが、作者の危機感には全面的に同意する。

ヘリオトロープ」と女が静かに言った。
三四郎は思わず顔をあとへ引いた。
ヘリオトロープの罎。
四丁目の夕暮。
迷羊<ストレイ・シープ>。迷羊<ストレイ・シープ>。
空には高い日が明らかにかかる。

本書に登場する三四郎からの引用だが、この美しい表現を初めて読んだときの感動は今でも覚えている。繰り返しになるが、このような珠玉の作品群を生み出した日本語の衰退を黙ってみていられないという危機感があるのならば、まずはその良さを普遍語の上に乗せられるようにし、普遍後を解する人々にその良さを理解してもらうのが先だと考えている。